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離合集散

離合集散は世の常、どこにもあること。団体にも会社にも国家にも。長い目で見ればそれで社会は発展し、会社も生きのびてきたともいえる。

日本の書道界も小さいながら明治以降現在まで、私の知っている限りでもかなりの数の離合集散があった。書への考え方、地位、利益、それらを複合した形でのそれを山はど見てきた。昭和五十五年、璞社の重鎮の一人が小坂先生宅へ脱会を申し出た日、先生はデンワで「今から行く」と用件も告げずに奈良のご自宅から大阪の私の家までタクシーで来られた。「なにしに来られるんですか」と聞いても答えはなかった。随分遅い時間だったと思う。そしていきなり「お前もかー」。寝耳に水とはこのことで、先生は10数分後に私に脱会の意志のないことを確認されると安心して帰られた。
あの騒ぎから約三十三年。璞社が発展したかどうか。いや決して数のことではない。質的に落ちていないかどうかの問題である。

平成元年、中野南風さんが先生からの会長推薦を固辞され、結果私が会長を引受けることになったのであるが、それでよかったのか、璞社の歴史としてそれでよかったのか、最近になってときどき考えている。あの時南風さんが小坂先生の言われた通り会長を引受けておれば、璞社の進路は大きく変わっていたと思う。中野南風さんの考え方は小坂先生を一歩進めた唯我独尊的なわが道を歩むであったし(これはこれで立派な考え)、私は一歩後退の付き合い、協調性を重んじたのだから—。考えてみれば先生は全くその中間だったといえる。璞社のためにどちらが良かったかはもう少し時を俟つ必要があろうとは思う。放射能の半減期を待つほどでもなかろうが、昨今の書道界を見ても離合集散のあとの明暗はとりあえずはっきりしてきている。

ただ一ついえることは、歴史に逆らってはいけないこと、いくら現代とはいえ、長い書の歴史に逆らって突然新しいものを生まれさせてはいけないということである。

江口大象(書源2020年7月号より)

 
   

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