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晩年の書

歯はまだ悪くない。悪くなくても近くの歯科はクリーニングの予約をさせられるので、年に五・六回は行っている。その度に「どうですか奇麗になったでしょう」と目の前に手鏡をかざして見せてくれる。その時私は歯でなくて鼻毛の方しか見ていない。「こりゃひどい」と帰宅後は年に数回の鼻毛切りである。
毎朝顔は洗っているが、実はこの時以外自分の顔をまじまじと見ることがない。大きな鏡の前だが、自分の老いぼれた顔を見ることはない。
多分六十過ぎまでは、まだ自分の老けぶりを眺めるゆとりがあったと思う。が、七十を越したあたりからは、日を逐って汚くなるものは見る気もしない。だから年数回の鼻毛切り行事は毎回久しぶりのご対面ということになる。

書作品はどうだ。顔と違って年を重ねるにつれそれなりの味が加わって良くなっている筈だと一人よがりで信じることにしている。若い時は思いのまま筆を操っていたと思うが、それが嫌味、下品と繋がっていたことは、当時は知る由もない。昔の数十年前の作品は、サラリと書いているから、あれこれ考えた工夫のあとが見えるから、気張って書いているから等々。しかしそれらにあまり関係なく良し悪しがある。
若けりゃ悪いというものでもない。年老いたからといって深い味わいが増してくるものでもない。誰でも折角の一生を棒に振りたくもないので何かの目的を持って日々研鑚をしていると思いたい。

「書」をやっている者も同じ。叶わずとも何らかの目標は設定して日々を過ごしていると思いたい。先人の書、誰それの書、先生の書、自分の書、世界に愛される書作品、等々、何でもよろし。加齢で手が不自由になったらなったで生きる道もある。
たしかに私も、もう箱書きの裏書きなどの細字は書けなくなっている。たとえ書けても私の字とはほど遠い。
晩年ほど良くなった書家を今頭の中で考えている。さて年を重ねてどんな作品になるのやら、自分でも楽しみにしておこう。

江口大象(書源2019年11月号より)

 
   

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