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碑文を書く

近年作品づくりにこんなに苦労をしたことがない。終日書けどさっぱり出来ない。「作品」ではなく「記念碑」を意識するからで、原因はわかっているが胸が晴れない。依頼は十日ほど前だったと思う。正式には一月二十七日。
「佐賀県立佐賀高等学校之碑」。左から右への横書き。左から右へは何十年も前に無理難題をいう同僚のために一度だけ書いたことがあるがそれっ切りである。縦九十、横百四十、厚さ二十五センチの堂々たる石に彫るとのこと。立派な完成予想図までついている。

当初は当然佐賀在住の野中正陽兄(凌雲会国書展副理事長)へお願いすべく話は順調に進んでいたようだが、正陽兄の急死により(前日までお元気)頓挫、結局私へお鉢が廻って来たらしい。
あの頃の佐賀高校は一学年千人のマンモス校だった。で、私は一年十九組、担任は生物の千住先生。昭和二十三年の学制改革で三つの学校を統合、男女共学にして出来たのがわが母校「佐賀高校」である。合併はしたものの校舎はそのまま三校を使い私は南校舎。そこに書道部室もあった。懐かしい話。私は毎時間授業終了と同時に書道部室へ駆け込んでいた。だから友達らしい友達は書道部員だけ。
だんだん生徒が増え一クラス五十人が二十四クラスになったところで三校分離「佐賀西」「佐賀北」「佐賀東」になったのが昭和三十八年。私は二十九年卒業で、三年生だったその頃は西校舎にいた。

話は横道に逸れてしまったが、石碑はこの佐賀西校のどこかに「佐賀高校」の跡地を示すものとして建てられるらしい。
当時書道部員は一学年に百人近く居たか。とすれば約千人超の中からピンチヒッターとはいえ私が選ばれたわけで名誉この上もないこと。いつもと全く違った緊張感が走る。
私は石碑は楷書でなければならないと思い込み、はじめの二、三日間は難行苦行した。いつも横ものは右から左へ書くので、右の字を意識して書くのには馴れているが、反対側の字へはさっばりであることを今回発見した。統一感がまるでない。バラバラである。
それで恥を忍んで、記念碑建立委員会の一人、同期の堤氏に電話を掛け「崩した字ではいけませんか」と。すると返って来たことばが「江口さんらしい字は行書でしょ。読めたらいいんです」であった。ホッとすると同時に気が抜けた。この数日間の苦労は何だったのか。

ところで行書の横碑文など見たことがない。気をとり直して行書で書いてみたが、出来なかった痛みは残るもの。楷書よりはましとはいうもののやはりうまく書けない。オレはこんなに下手だったのか。ひどい。今日で三日目。その間何枚書いたことか。
又明日書こう。たとえできなくても諦めよう。
二月十日。終了。送る。石に彫ったらどうなることやら。石屋さん(同窓生とのこと)のことも考えて、努めてカスレや小さい穴は控えたつもりである。

江口大象 (書源2016年5月号より)

 
   

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